1974年11月4日(月)5日(火)、に吹奏楽コンクールの全国大会が開催されました。
この文面を書いている今日が2024年の11月5日(火)なのでちょうど50年経ちました。今年はカレンダーの並びもあの時と同じです。
「たしか、吹奏楽コンクール全国大会は、この頃だったな...」と。昨日、ちょうど思い出していました。
1973年~76年の間は、吹奏楽コンクール全国大会は、普門館ではなく別会場で行われていた期間のようです。
そして1974年に開催された吹奏楽コンクール全国大会の会場は、1973年4月に開館したばかりの神戸文化ホールでした。
田舎者で世間知らずの中学生のわたしたちには、とても大きな敷地に大きなホールだったと感じたのを記憶しています。確か、リハーサル室もとても大きく感じ緊張したのをよく覚えています。夏のコンクールの予選の方が堂々とした演奏ができたような気がしました。
音楽の演奏は、緊張して当たり前なのかもしれませんが、あまり緊張しすぎると当然、いい演奏ができません。
以前の投稿でも書きましたが、課題曲A小林徹作曲「吹奏楽のためのシンフォニア」自由曲は、セザール・フランク作曲交響詩「呪われた狩人」です。
音楽の時間 ー吹奏楽部の思い出ー 1974年 課題曲A 「吹奏楽のためのシンフォニア」地区予選より | だいだいファクトリー
音楽の時間 ー吹奏楽部の思い出ー 全日本吹奏楽コンクール 1974年 自由曲 「交響詩呪われた狩人」 | だいだいファクトリー
当時の演奏している写真は残っていますが、全国大会の演奏の録音は、残念ながら残っていません。結果は、銀賞でしたが、吹奏楽コンクール全国大会で音楽に無縁だったわたしが、チューバを持ちsoloまで吹かしていただいたのですから...。結果は、銀賞でも一生の宝物です。
全国大会への出場も果たし、3年生は、いよいよ引退です。今度は、中学2年生になって先輩のいなかったパートのわたしたちもいよいよ、翌年の春からは最上級生になります。
今度は、わたしたちが名門吹奏楽部を引っ張っていくこととなるのです。
しかし名プレイヤー揃いだった3年生が引退すれば、穴あきだらけのパートばかりです。先輩のいなかったユーホと私たちチューバは、経験だけは豊富なパートとなりました。先輩方の抜けたパートは、後輩指導と自分たちの腕を磨くために猛練習?のみです。
そしてパートリーダーが交代し幹部交代です。
もとより、チューバは、わたしが、パートリーダーだったのでそれにかわりはありません。
チューバを吹いていたわたしと同級生はバストロに転向となりました。低音パートは、チューバ2人と弦バスの3人になりました。
幹部交代...
部長、副部長、あと、会計のようなものがあったような...。
部長がひとりに副部長には男女2人が任命されます。
顧問の先生との相談はしますが、部長、副部長、会計などの幹部を決めるのは、引退する3年生からの指名でした。
ホルン担当の前部長より新部長が言い渡されます。
わたしたち2年生の中では、「だれだれがいいんじゃないか」と適当に無責任に話していたのを記憶しています。
まあ、伝統ある名門吹奏楽部ですから、部長とかなるといろいろたいへんです。
わたしたち2年生が3年生と幹部交代の為ミーティングをしたような...前部長から言い渡されたような、記憶はさだかではありません。
そして...
次の部長は、「えっ!?」、「わたし???」って…。
なんかの間違えですよね。聞き間違え???
もう、びっくりです。吹奏楽部への入部もへんなきっかけだし...。断り切れなかっただけなのに...。
全国大会に出場するような名門吹奏楽部の部長が「わたし???」
「わたし」でいいんですか・・・と
14歳の秋も深まる頃でした。
・・・
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